中山小学校の歴史1

校章の由来
校木「かしの木」の由来
開校当時の様子
中山小誕生までの流れ

中山小学校開校 草創期

校章

 鳶の巣山,中山小学校の上空には,いつも鳶が翼を広げて舞っていた。そのころ世界のいくつかの国では,人工衛星を打ち上げ宇宙開発の招来を告げた。わたしはやがて中山小学校を巣立つ鳶の子たちが,世界に飛躍するせつなる願いを夢みた。

 中山小学校開校当初の学区は,中山,泉ヶ丘(共済団地),滝道,桜ヶ丘の四つで形成されていた。 校章はこれらのことをふまえ,ひし形の四つの辺は学区の四つの地区,円は和(子供たち・学区民)その中に「中山小」の文字が浮き出るように創案した。

                         (初代校長  門間慶寿氏)

 

校木「かしの木」の由来

 (20周年記念樹)

 かしの木は常緑高木で,おれず曲がらず硬軟合わせ持つ木である。また,実はドングリとよばれ,子供たちに親しまれている。校歌の一節に「賢く強く」とあるが,このことばにも掛け,本校児童の健やかな発展を祈って校木と定めた。

開発当時の様子

 昭和41年より中山ニュータウンの造成が始まる。共済団地を境として,中山,桜ヶ丘,春日の4つの団地が次々と開発される。鳶の巣山一帯が,今の中山小の起点であるが,開発の勢いはすさまじく,一挙に荒巻の山が削り取られ,一挙に団地ができたという変貌ぶりだった。
  当時,通町より独立した荒巻小があったが,次々と新しい団地ができたので,たちまちパンク状態となり、期せずして中山小ができた。まだ,住宅もまばらで,春先の風が吹くと「中山砂漠」と称され,1メートル先も見えないこともあった。
  市内43番目の小学校として誕生した中山小学校は,仙台一の広い校庭を持つといわれ,三階建て鉄筋コンクリートのモダンな建物であった。とはいえ,急ごしらえの校舎,校庭だった。
 校庭は,石ころが多く雨がふると田んぼのようになり,体育館もなかったので,常に石ころを拾わなければならなかった。
 開校当時,274名だった児童数はその後増え続け,10年後には,1777名を数えるマンモス校になった。 1学級に82名もいる学年もあったという。プレハブ校舎を2棟作り,特別教室もすべて普通教室として使用した。その間,桜ヶ丘,北仙台小,川平小,吉成小が新設され,児童が移っていった。

中山小学校誕生までの流れ

          通町尋常小学校 (明治21年設立) 1888年

                            100%以外の文字設定では矢印がずれるかもしれません

          仙台市立通町小学校 (昭和22年)1947年

              

          仙台市立国見小学校        
          (昭和29年)1954年       仙台市立荒巻小学校
                              (昭和32年)1957年             

              
                                中山小学校
                  
(昭和43年)1968年
         仙台市立北仙台小学校 

         (昭和45年)1970年 

                 
                                                 仙台市立桜ヶ丘小学校
           宮城町立吉成小学校      仙台市立川平小学校       (昭和50年)1975年
            (昭和54年)          (昭和54年)1979年